カテゴリー別アーカイブ: 社長ブログ

2024

04.03

3年に渡ったコロナ禍では、他人とマスクなしで会話することや、日常生活空間からの移動が厳しく制限されました。しかし、今考えるとコロナ禍があったからこそ、出会えたというような人の例が皆さんにもいくつかあるのではないでしょうか?私の身近に起きたそんな物語を連載しています。今回は連載3回目です。

 

○○の星物語-3・・・コンクリート打ち作業に歓声上がる

 

私は、コロナ禍になって毎週のようにあった出張がほとんどなくなりました。ビジネス上の新たな出会いは少なくなり、名刺も全然減らなくなりました。私の場合は、各地のポスティングのお手伝いに出かけることで、精神状態の安定が図られていました。

我が家に土日にやってくる○○の星の皆さんは、我が家に農作業にくることによって、精神状態が安定してきているようでした。しかし、冬になり、農作業がほとんどなくなり、なにか持て余しているエネルギーの使い道を探しているようでした。私が提案した、コンクリート打ちしてみる?という提案に、やる!やる!やる!と乗ってきました。

 

私は、そのころ、ソーシャルディスタンス、ステイホーム、三密回避と叫ばれていたコロナ禍だからこそできることは何かと休日の過ごし方を考えていました。そこで、父母が残してくれた干し柿づくり用の鉄骨小屋を一人でDIY(Do-it-yourself)していました。

  

 

 

こんな感じの作業を自己流のDIYで、休日ごとにすこしずつ作業を進めていました。

 

中でも小屋の床を張るための土木作業は、重労働で手探りでした。特にコンクリート打ちは、素人には大変な作業でしたが、面白い作業でした。軽トラを運転して、近くの砂利工場から何往復もして砂利を買ってきました。広大な砂利工場で重機を使って砂利を乗せてくれるイラン人の作業員と顔見知りになったほどでした。

 

 

「コンクリートとセメントとモルタルの違いって知っている?」

なんてにわか仕立ての知識を披露しながら、○○の星の皆さんと一緒にコンクリート打ちをしました。重労働でしたが、一気にすすみました。

 

隣家の女の子が2人遊びに来て、コンクリート打ちを興味深く手伝ってくれたりもしました。記念にコンクリートが固まる前に手形をつくりました。この子たちが大きくなったら、懐かしく思うだろうなぁ。

 

○○の星の皆さんは、さすがに若くて力があるので、どんどんコンクリートを打って行ってくれました。○○の星のみなさんもコンクリートが固まる前に、記念にサインしていきました。

 

        ↓

 

 

予定のコンクリートを打って、お茶を飲みながら談笑していたら、今度は次のアイディアが生まれました。

私「土木や大工の仕事をやりたいんだったら、○○の星の皆さんで農機具を仕舞っておく小屋をつくったらどう?今は、小屋のキットなんかもあるから、楽しいと思うよ。」

○○の星の皆さん「えっつ、やりたいです、楽しそう、やります、やります。」

 

ということで、今度は○○の星の皆さんで、小屋をつくることになりました。私が予算を言って、その中でできるものを探してきて、ここの場所になら建てていいよと指示しただけでした。もうひとつ条件、予算内で費用はだすけど、自分たちだけで最後までやってね。私たち夫婦は一切手伝わないよ、と伝えました。

それから、○○の星の皆さんは、目的がはっきりしたので、ネットや雑誌で情報を集めて、予算内で何ができるかを議論しはじめました。どうやら、小屋キットをつくっている富士見町の工場にまで実物を見に行ってきたようです。1ケ月ほどあーでもない、こーでもないとさまざまな検討をして、私にすべての費用の見積もりを出してきましたので、「じゃあ、これでいいよ。」とゴーサインを出しました。

納品のスケジュールなども考えて、コロナ禍2年目のゴールディンウィークに一気に組み立てるという計画まで立てていました。

 

○○の星の皆さんは、やることがはっきりすると、そのプロジェクトを様々な角度から検討して、創意工夫して実行していく能力が非常に高いことが分かりました。また誰がリーダーというわけでもないのに、各人が作業分担をしていく、チームワークがいいことも分かりました。○○の星の皆さんの目は輝いていました。

 

(つづく)

2024

03.27

3年に渡ったコロナ禍では、他人とマスクなしで会話することや、日常生活空間からの移動が厳しく制限されました。しかし、今考えるとコロナ禍があったからこそ、出会えたというような人の例が皆さんにもいくつかあるのではないでしょうか?私の身近に起きたそんな物語を連載しています。今回は連載2回目です。

 

○○の星物語-2・・・青年たちの笑い声が響く中山間地(ちゅうさんかんち)

 

○○の星のみなさんは、ある時は、1人で、ある時は5~6人でと、皆自由に参加して野良仕事を楽しんでいました。職場の上司が、軽トラックをだしてくれて、牛糞を1杯どこからか調達してきて持ってきたのには驚きました。彼らも本格的に休日の農業?をやり始めました。天気の良い日には、休日の1日をまるまる耕作に励んでいく人もいました。そんな日は、コンビニへお昼弁当を買いに行っているようでした。

1年目は夏からだったので、草を刈って、耕して、畝をつくって、ほうれんそうや白菜やさつまいもなどの野菜にチャレンジしていました。

離れたところにある作業小屋で休憩しているときの青年たちの楽しそうな会話が、我が家にいても聞こえてきていました。A君をはじめとした○○の星のメンバーはその都度異なりますが、農作業のあとには、バスケットしたり、卓球したり、サッカーをしたり、テニスの壁打ちをして帰っていきました。(我が家には、そのような遊べるちょっとしたスペースがあります)

 

また、我が家では、結構独自のイベントがあります。秋には、サンマ焼きパーティ。年末には、先祖代々の石臼を使った餅つき大会。こんなイベントにも、○○の星の皆さんを招待して一緒に楽しみました。

(サンマ焼きパーティでは、フェイスシールドをつけて楽しみました)

 

 

(年末恒例のもちつき大会にも数人参加してくれました)

 

世の中は、ソーシャルディスタンス、ステイホーム、三密回避などで先行き不安な時代でしたが、考えてみると土いじり(農作業)は、精神状態を正常に保つことができる格好のレジャーだということが分かりました。

(秋には落ち葉を集めて、畑でとれたさつま芋を焼いて楽しんでいました)

 

そのうちに、収穫も終わり冬になると、○○の星の皆さんも農作業でやることがなくなり、来なくなりました。コロナ禍も2年目になり、ますます長引くことが明確になり、政府の緊急事態宣言も2回、3回と回を重ねるようになりました。

冬のある日、久しぶりに○○の星の皆さんが、A君はじめ何人か来て片づけなどをしていました。私がお茶菓子をもっていくと、一人が「村松さん、なにかほかに体を動かすことができる作業ないですか?僕たち体がなまっているので、お手伝いしますよ。」と声を掛けてくれました。

そこで私が一考して、「じゃあ、コンクリート打ってみる?」と提案しました。すると、○○の星の皆さん「えっつ、いいんですか?一度コンクリート打ってみたかったんです?やります、やります、教えてください。」

 

へぇー、今どき、こんな青年たちがいるんだという驚きとともに、私もがぜんやる気になってきました。

(次回へつづく)

 

2024

03.20

3年に渡ったコロナ禍では、他人とマスクなしで会話することや、日常生活空間からの移動が厳しく制限されました。しかし、今考えるとコロナ禍があったからこそ、出会えたというような人の例が皆さんにもいくつかあるのではないでしょうか?私の身近に起きたそんな物語を連載してみます。

 

○○の星物語-1・・・一人の見知らぬ青年が我が家のチャイムを押した!

 

それはコロナ禍がはじまって半年したころ、2020年7月の暑い日曜日の朝、ひとりの見知らぬ青年が我が家の玄関のチャイムを押したところから物語がスタートします。玄関先にぽつんと立っているその青年は、カジュアルな服を着て背が高くメガネをかけた20代前半の若者でした。もちろんマスクをしていました。対応した私たち夫婦に、緊張しながらこのように切り出しました。

 

「あの~、こちらで畑を貸してくれると聞いたんですが…」

 

妻の知人から聞いてきたらしい。玄関先で2mの距離を取りながら、話を聞きました。なんでもコロナ禍で職場がリモートばかりになってしまったと言います。この青年をA君としましょう。A君は長野県の隣県の出身で、この年に就職してこの地にやってきたので、アパート暮らしだが、ずっと連日家の中にいて頭がおかしくなりそうだと言います。実家に帰ることもできず、毎日アパートの一室でパソコンとスマホでの仕事なので、体もなまり、同僚にも会えず精神的にまいっているといいます。

 

そこで、休日に、土に触れて畑を耕してなにかを植えたり、育てたり、収穫したりという野良仕事をすれば、いまの精神状態から脱することが出来るのではないかと考えて、どこかで畑を借りられないかと探していたということが分かりました。

 

我が家は、中山間地域に先祖代々つづく家ですが、父母の代まで一生懸命農業を広げてきた田畑が、家の周りにひろがっていました。私の代になってそれらが耕作放棄地になり、草ぼうぼうな状態でした。そのような耕作放棄地は、この地ではどこにでもあります。田畑を使ってくれるなら、私たち夫婦には、願ってもないことでした。

 

「うちにある鍬やトラクターなどの農機具は自由に使っていいよ。(家の目の前が畑だけど)いちいち我が家に顔をだして、その都度あいさつしなくていいので、好きなときにきて自由にやっていいよ。」

「ありがとうございます。では、天候をみて来週の土日から来ます。」

 

と言ってA青年はうれしそうに帰っていきました。

 

翌週、我が家の耕作放棄地の畑には、3~4台の車が停まって5~6人の青年がおりてきて畑を耕しはじめました。

えっつ、一人じゃなかったの?とA君に聞くと、職場で話したら、「おれも・・・」「俺も・・・」「わたしも・・・」「私も・・・」と参加者が増えたといいます。にぎやかになって、まぁ、いいかと見守ることにしました。

 

我が家の前にある耕作放棄地は、県道沿いにあるので、結構くるまが通ります。見慣れた耕作放棄地が急に見知らぬ若者たちであふれているので、近くの村人の軽トラックが時々停まって見ていくようになりました。何がはじまったんだ?・・・という感じです。

 

私たち夫婦は、いつころかその集団を「○○の星」と呼ぶことにしました。○○には、A君の職場の名前が入るのですが、ここでは伏せますので、ご了承ください。

私たちの会話は、こんな感じです。私「今日、○○の星の皆さんは来ていた?」妻「○○の星が、今日は3人来てたわよ。1台あった古い豆トラの動かし方を教えておいたわよ。」「○○の星は、今日は女の子もきてたわよ。聞いてみたら△△県出身だって!遠くから就職して偉いわよね。」

 

このようにして、○○の星の皆さんと我が家の交流が、コロナ禍をきっかけにして始まりました。

(次回へつづく)

2024

03.13

2023年3月13日、いよいよ日本ではマスク着用が個人判断へと舵をきりました。

これは大きな変化になります。思い起こせば、3年前の今頃は、小売店の店頭からマスクがなくなる供給不足に陥りました。全国の小中学校に休校要請がだされたり、コメディアンの志村けんさんがコロナが原因で亡くなられたりと、社会的な混乱がつづきました。当時の安倍首相から、初の緊急事態宣言がだされたのが、3年前の4月でした。

 

長かった~。

 

というのが本音です。この長かった期間に私たちの生活様式も随分と変わってしまいました。この春に中学校、高校を卒業された皆さんは、3年間マスク生活だったために、ほとんど級友の顔を見たことがない状況でした。この学生生活の経験が将来どのように影響してくるのかが、興味深く注目しています。

 

ところで、現在開催中のWBC(ワールドベースボールクラシック)で侍ジャパンチームが1次リーグを4勝0敗で見事突破しました。おめでとう!

テレビで観戦していると、東京ドーム開催中の12日までは、ほとんどの観客がマスク着用していました。

今後16日の準々決勝(対イタリア戦)が東京ドームで開催されます。その際の観客のマスク着用率の低下が明白になることによって、日本全国にマスクを外していいんだという安心感がうまれることが予想されます。今後は、マスク着用が確実に少なくなっていくことでしょう。WBCでの侍ジャパンの戦いとともに、東京ドームでの観客席のマスク着用率に対しても注目していきましょう。

 

PS。このマスクの下がどのようかは予想できませんよね。

 

マスクを外すと・・・

 

 

そうです、こんなにふくよかで、神々しい顔をされていたんですね。七福神のおひとり布袋さまですよね、耳たぶがふくよかで神々しいですね。

ともかく、私たちは前を向いて歩いていかなければなりません。ビジネスにおいても、この3年で培った経験を将来に向けて活かしていきたいと考えています。

 

(次回からは、コロナ禍3年間に我が家に起きた出来事について連載したいと思います)

2024

02.13

本日、2月13日の一か月後、3月13日まであと一ケ月のカウントダウンがスタートしました。

何のカウントダウン?と思われるかも知れませんが、なんでしょうか?

 

そうです。

先ごろ、政府は、新型コロナ感染症対策について、

「3月13日から、マスクの着用は個人の判断に委ねる。」

という基本的対処方針を発表しました。学校教育活動では、4月1日以降は基本的にマスクの着用を求めないとしましたし、それに先立つ3月の卒業式でも「マスクを着用せずに出席することを基本とする」としました。

今後、5月8日には、現在の新型コロナの感染症法上の位置づけを「二類」から「五類」へ移行することを決定しています。新型コロナへの対策としてのワクチン接種も、今後は、年に秋から冬にかけて一度接種するのが妥当との方針を発表しました。

つまり、限りなく「インフルエンザへの対応」と同等になってきたということです。

思えば、3年前のちょうど今頃、全国の小売店の店頭からマスクがなくなり、学校の一斉休校や初めての緊急事態宣言が出されたりと、新型コロナ感染にともなう混乱が始まりした。

やっと、丸3年の歳月をかけて終息を迎えることになります。

おめでとう、がんばったね!人類!

この3年間、人間の性(さが)を見せつけられるような出来事が多く起こりましたが、わたしの周りの皆さんは常に冷静に対応していました。わたし個人としては、人類って、スゴイなぁと思うことばかりでした。未知のウィルスという困難に立ち向かう専門家の人々がいて、知恵を出し合い、議論しあって、最終的には国がきちんと方針を出していくというプロセスがすごいなぁと思うことばかりでした。

特に日本では、国や行政と個人の信頼関係がきちんとできていて、すごいなぁと思っていました。

会社も常にそのような信頼関係で成り立つ関係でありたいと思いました。

 

 

 

 

2024

01.05

新年明けましておめでとうございます。

2023年、令和5年、うさぎ年が穏やかにスタートしました。

皆さまはどのようにお過ごしでしょうか?3年ぶりの行動制限のない正月でしたので、各地では人出がすごかったですね。でもこれが本来の正月だったのですね。以前のことが思い出せないくらい長いコロナ禍でしたね。

当社は、昨年は普通では経験できなようなことをたくさん経験させてもらいました。今年は、一皮むけて、新たなスタートを切りたいと考えています。個人的にも還暦を越えて新たな段階に入ったつもりです。

ケンタッキーフライドチキンを創業したカーネルサンダースは、60歳を超えてからフランチャイズ展開を始め、一気に世界的なチェーン店に発展させました。それまでは米国ケンタッキー州の片田舎でお店を1店舗経営していただけでした。90歳で亡くなったときには、世界に6000店舗のケンタッキー店があったといいます。世界的なプロスキーヤーの三浦雄一郎氏は、80歳になったときに3回目のエベレスト登頂に成功しています。こんなすごい人たちにちょっとでも近づけるように頑張っていきたいと思います。

●ポスティングの「まかせてグループ」

●住宅購入相談所の「すまいポート」

●貸ホールの「南松ホール」

を本年もよろしくお願い申し上げます。

有限会社ペーパー・シャワーズ 代表取締役 村松昭文

⇓本社のとなりの会社の松飾が毎年豪華でほれぼれとしています。職人技ですね。どんど焼きで燃やすのはもったいない芸術品級です。

2024

10.26

先日、ご招待を受けて社員の結婚式に参加してきました。

コロナ禍を越えて、約3年ぶりにこのような大勢の方々が集まる結婚式が開かれるようになったと感慨深いものがありました。当人たちもだいぶ悩んだようですが、やはりリアルで集まる結婚式を開催することを決断したと言っていました。

 

 

大正解!でした。リアルにまさる結婚式はありません。いろんなところにコロナ感染症対策のアイディアが散りばめられていましたし、結婚式のあり方もかなり変わってきたなと思いましたが、基本は同じです。いままで育ててくれた新郎・新婦それぞれのご両親やご家族・ご親戚のみなさんへ感謝する大事なイベントです。また、2人が結婚したことをひろく世間一般へ宣言・アピールする儀式でもあります。

 

結婚式のあとの披露宴も、細かなアイディアがたくさん見受けられました。2人の人柄が分かる大変印象深い披露宴でした。

私は、車の運転があったのでアルコール類は一切飲みませんでしたが、できればお酒も入れてお祝いしたかったなぁと思いました。

 

これで何回目の社員の結婚式に呼ばれたのだろうか?一緒に招待された社員とそんな話になりました。いままでご招待をうけた社員は、皆、幸せ(そう)な家庭を築いていることに気が付きました。扶養家族が増えた家族も多くあります。

このような当たり前のことが今は非常に貴重な出来事のようにおもえます。社員の扶養家族が増えることはいいこと、それは会社が発展していくためにも重要なことだと思える今日この頃です。

F君、本当にご結婚おめでそう、姉さん女房の奥さんも気さくで話しやすい方ですね。また、一緒に飲みましょう!

(仕事もがんばってください!)

 

2024

10.15

(前号からのつづき)

 

東北から帰ってきて、私も日常の生活に戻っていました。

9月になって稲穂が色づき、稲刈りが始まるころ、私の家に東北のあの町の消印のある一通の手紙が届きました。

 

そこには、あのことば「克勤克儉」の読み方と意味が書かれていました。

斎藤實記念館の学芸員さんが、一生懸命にまわりの方々に聞いてくれて、判明したということでした。ちょっとした会話から、長野から訪ねて行った変わったおじさんのために、時間をかけて調査してくれたことが文面からも推察できました。

 

さて、本題です。

 

「克勤克儉」の読み方は、

「よくきん よくけん」

でした。

意味は、

「職務を成し遂げても、行いを慎んで控えめにする」

ということでした。

 

出典は、唐人の処世訓(身を守るの所為)のなかにある一節で

「克勤克儉無怠無荒」からきているということでした。

 

こちらの読み方は、

「よくきん よくけんに たいなく こうなし」

になるそうです。

また、その意味は、

「心を尽くし 職務を成し遂げ

 行いを慎んで控えめに

 怠りなく励めば

 見捨てられる(無視される)ことはない」

ということでした。

 

 

この夏、日本の首相だった人物が選挙演説中に41歳の男性が撃った凶弾に倒れるという衝撃的な事件が起き、それをきっかけに郷土の公民館に掲げられている扁額を思い出してしまいました。

昭和8年に日本国の首相だった人物は、禁酒をして村の財政を立て直した全国の村長さんを首相官邸に招いて、ほめたたえたあと、「克勤克儉」の扁額を贈りました。扁額を贈られた村では、それを大事に後世に伝えてきました。

その後、扁額を贈った首相は、首相退任後でしたが欧米寄りの姿勢を批判されて、二・二六事件で青年将校に殺害されていました。

 

 

「克勤克儉」の読み方や意味を探して、東北の斎藤實記念館にまで行ってしまいました。その町が、大リーグエンゼルスで大活躍中の大谷翔平選手が育った地とは知りませんでしたが、新たな発見でした。

なぜそこまでして、このコトバの読み方や意味を知りたかったのかは、今となってはよくわかりません。しかし、私や当社がいま必要としているコトバだったような気がしてきました。

 

いまは晴れ晴れとした気持ちで、秋晴れの空を見上げることができるようになりました。

 

 

私のひと夏の冒険に5回にわたりお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

Special thanks  to 斎藤實記念館 学芸員のⅠ様

(完)

 

2024

09.28

(前号からのつづき)

ぶらぶらと斎藤實記念館から、在来線の最寄り駅に向かって歩きました。するといたるところから「大谷翔平」の名前が目に飛び込んできました。

 

宝石店でも

 

お茶やさんでも

 

スポーツ店でも

 

 

 

そしてJRの駅前の広告塔にもおおきな大谷翔平が踊っていました。

 

 

そうです。ここは、大リーグエンゼルスの大谷翔平選手が、中学生までを過ごした町でした。花巻東高校で全国にその名を轟かすまでは、大谷翔平選手はこの町で普通に少年時代を過ごしていたのです。この駅にも、あのスポーツ店にも寄っていたに違いありません。

 

 

↑駅の待合室にも、大谷翔平選手が普通にいたことでしょう。

 

もう何年かすれば、大谷翔平記念館がこの町にできるに違いありません。東北新幹線のタクシー乗り場には、人があふれるかも知れませんし、待合のタクシーも途切れなくなるかも知れません。郷土の偉人となる日も近いでしょう。もしかしたら、もうすでに偉人かも知れませんね。

 

いつの時代にも、郷土に誇れる偉人がいるといいですね。

 

その後、東北から帰ってきて、私も日常の生活に戻っていました。

 

9月になって稲穂が色づき、稲刈りが始まるころ、私の家に東北のあの町の消印のある一通の手紙が届きました。

(つづく)

2024

09.22

(前号からのつづき)

 

ここに昭和8年(1933年)ごろの新聞記事があります。おおよそ、書いてあることはこんなことです。

 

「昭和8年9月1日、関東大震災の記念日に明治神宮外苑にある日本青年館にて、東京都下の20村の村長が集まる会合で、全国の禁酒村の村長を招いてその活動を聞く集まりがあった。招かれたのは、青森県三好村、茨城県高田村、神奈川県大澤村、石川県河合谷村、石川県笠谷村、富山県南谷村、愛媛県日振島村、香川県栗井村、岐阜県間瀬村、長野県三穂村の10村の村長でした。

全国禁酒村の草分けである石川県河合谷村の森山村長からは、全村禁酒に励んだ結果、貧乏な寒村に学校を建てることができたと報告があった。また、禁酒を実行してからの村は、

  • 病人が5割減った。
  • 貯金が5年間で3万円もできた。
  • 全村300戸のうち、2割近い50数戸が改築された。
  • 伝染病が皆無になった。
  • 訴訟、喧嘩がなくなった。
  • 犯罪が皆無となった。
  • 花柳病(性病)患者が0パーセントになった。

など良いことばかりになった。

翌2日には、10村の村長は首相官邸を訪問し、斎藤實首相へ直接意見を開陳した。」

 

時の首相、斎藤實は、全村の村長に、「よくやりました」とほめて、「克勤克儉」の扁額を送ったということでした。

 

昭和初期の日本は、ニューヨーク市場での生糸大暴落後の世界恐慌の中で、「貧富の格差拡大」「物価の高騰」「農村の疲弊」「雇用への不安」「関東軍の暴走」など令和の現代にも通じる状況でした。主要人物の暗殺も相次ぎ、社会不安が増長していました。そのような時代において、全国で禁酒を励行する村が表れて、首相官邸において表彰されたということになると思います。

 

10村のひとつ、長野県三穂村が、私が生まれた村です。三穂村では、斎藤實首相からいただいた扁額を大事に公民館で保存し、後世に伝えてきました。故郷を離れてずっと過ごしていた私もその事実を知ってから、郷土に誇りを持てるようになりました。

 

公民館で保存されている扁額がこれです。

(儉克勤克は、見たままですが、戦前の漢字などは、読むときは右から読むので、克勤克儉が正しいことばの順序でした。)

 

しかし、正確な読み方、正確な意味を知る人がいなくなっていました。

そんなとき、安倍元首相の暗殺事件をきっかけにこのことを思い出してしまったのでした。

 

その当時の三穂村村長の林治郎が作詞した「三穂更生歌」なる歌詞も公民館に飾られています。そこにも「克勤克儉」の文言が見られます。(歌までつくってしまったすごい!村長ですね。)

 

斎藤實首相は、なぜ、この言葉を禁酒村村長に贈ったのだろうか?

 

そもそも読み方は?その意味は?

 

と知りたいことが次から次へと湧き出てきました。

 

しかし、なぜか斎藤實記念館を訪れたことにより、達成感でいっぱいになりました。記念館を出た私は、そんな故郷の歴史を思いながら、最寄りの在来線の駅までしばらく歩くことにしました。

古民家を改築した町の資料館なども見学して、駅に向かって歩くと、そこは「大谷翔平」であふれている町でした。

(つづく)

 

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