10年前の春は何をしていましたか?(東日本大震災のころ考えたこと)

2021

03.15

10年前の3月11日東日本大震災が発生しました。

しかし、津波、原発事故、ガソリン不足、電力不足と次々と状況が変化していきました。東京電力が計画停電を行うという情報が流れました。当社で展開しているまかせて甲府、韮崎は、東京電力の管内でした。急遽、本社にあった灯油ストーブを2台甲府へもっていきました。

いつ電気が止まるかもという状況で、暖房は必須でした。ガソリンスタンドへ列をつなぐ光景もあちこちで見かけました。ガソリンの携行缶も極端に不足していました。

東北地方の状況は、もっと過酷な状況で、日々変化していました。地震も大小続いていました。

当社でも東北で頑張っている㈱アオバヤさんを応援に行こうということになり、社員から義援金を集めました。

そして、4月中旬、甲府にあったハイゼットに荷物を積んで社員1名と私の2名で東北に行きました。応援用の栄養ドリンク剤400本も積みました。食料品、寝袋持参です。やっと東北自動車道が開通していましたが、東北新幹線はいたるところが災害復旧の最中でした。

途中、福島第一原発周辺の状況を見るために、福島県南相馬市に入り、1日災害ボランティアに参加しました。

↑南相馬市のボランティアセンター受付、若い人たちががんばっていました。

状況は想像を絶するものでした。しかも、放射線量も高くていろんな情報が氾濫しているなか、全国から若い人たちがたくさん応援に来ているのをみて、この国はなんてすごいのかと感動したことを覚えています。皆さん、仕事や学校を休んできていました。公園にテントを張って野宿して参加していました。

 

私たちが行ったのは、南相馬市鹿島区のこんな集落の泥の掻き出しを手伝いました。青いつなぎの2人の男の子は、地元の高校生でした。一緒にボランティアしました。1ケ月ぶりに海岸近くに来たと言っていました。高校は休校中で何もすることがなく、ボランティアに来たと言っていました。自分の知っている町が、なくなっていてショックを受けていました。

↑地元の人とボランティアのみ入れる自衛隊が用意してくれたお風呂に入り、夜はハイゼットで寝ました。お風呂は、小学校の校庭に、広島から来ていた自衛隊の部隊が「もみじ湯」というのれんを掲げていました。自衛隊の活躍を目の当たりにして、この国に誇りを持つことができました。

その後、㈱アオバヤさんの事務所を、福島県郡山市と宮城県仙台市をまわり、社員から集めた義援金と栄養ドリンク剤を手渡すことができました。仙台では、社長から「良く来てくれた!」とおいしい牛タン定食をごちそうになりました。

また、仙台市のとなりの海岸沿いの七ケ浜町という町で、ちょうどチラシを配ってほしいというお客様がいるから、折角来たのだから、一緒にポスティングしようという話になりました。それは、望むところということで、㈱アオバヤの社員の方々と一緒にポスティングしました。

チラシの依頼主は、地元七ケ浜町の歯医者さんでした。海岸沿いの歯医者さんで、津波に半分呑まれて休業中でしたが、やっと片づけが終わり、営業再開しますよというチラシでした。本当にワープロで作った簡単なチラシでしたが、心がこもっていました。健康保険証がなくても、診察できますので、安心してくださいと書いてあり、細かな心遣いに感動しました。

ポスティングしていると、家の片づけをしている人が、次々と声をかけてくれました。「何を配っているの?」「あの歯医者さん、再開するんですね。」「先生自ら、チラシ配りご苦労様!」など。どうも私が歯科医に見られたようです。

ポスティングという事業が、このような大災害が起きた後でも需要があり、社会のインフラになっているということを実感した出来事でした。

本当に別世界になっていた東北地方をいろいろと見ながら、いよいよ帰ろうとしたところ、過酷な長距離運転に耐えられず、ついにハイゼットのエンジンが動かなくなってしまいました。

レッカー車を依頼し、夜通し東北道、中央道を走り、まかせて甲府についたのは、明け方でした。

↑福島県二本松市のレッカー業者の社長さん自ら運転して、山梨県甲府市までハイゼットと私たちを運んでくれました。

東北地方から帰ってきてしばらくは仕事が手につかないほどに疲れ、同じ日本で起きていることを自らのこととして実感できるようになりました。

この後、㈱アオバヤさんと当社の社員どおしの交流が生まれていきます。

(つづく)

 

 

 

 

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