大河津分水の物語(地元ラジオ番組から聞いた話)

2024

07.19

組合から頂いた仕事のために、出張中にカーラジオから聞いた話です。

くるまは、北陸道を一路北上していました。日本海が見えるあたりで聞いた話です。

大河津分水 = おおこうつぶんすい

なんのことでしょうか?まず、中学生の地理の時間にもどして知識を整理してみましょう。

長野県内を流れる、梓川、奈良井川、犀(さい)川、千曲川などの一級河川は、北上するにしたがって、一つにまとまり、新潟県に入ると、信濃川と名前が変わります。水量を増やした信濃川は、越後平野を潤し、新潟市で日本海にそそぎます。私が書いた地図を参考にしてください。

 

しかし、下流の新潟市を含む越後平野の人たちからみると、信濃川は、水量が多く、毎年のように大洪水をもたらすやっかいな川だったのです。江戸時代末期から、なんとか水害から守る方法はないかと住民から、根本的な治水工事を行うように、お上へ陳情が繰り返されていたそうです。

特に、明治29年(1896年)横田切れと言われる大洪水は、3ケ月に渡り越後平野の水が引かず、赤痢も発生し、何千人ものかたが亡くなり、農作物も大打撃を受けた大災害でした。そこで、明治政府がついに大工事をする決断をしました。

それは、燕市を流れる信濃川から分水路を掘り、直接日本海へ流す計画でした。これにより、信濃川本流の水量を減らし、安心して生活できる基盤ができます。明治42年着工、大正11年通水、昭和6年補修完了という東洋一の大工事だったそうです。本流には、洗堰、分水側には、可動堰という水量を調整できる堰が設けられています。

全長9.1km、途中にある標高100mを超える山地を掘るという前代未聞の大工事に、外国製の巨大掘削機械をいれて、のべ1000万人が工事に携わりました。

この人工的な分水路が、大河津分水なのです。

 

(↑ネットのサイトなどから引用しました)

ラジオでは、地元燕市の市長と女性パーソナリティのやりとりでこの工事の困難な物語を語ってくれました。燕市には、江戸時代長岡藩にあった長善館という漢学の私塾があり、そこの卒業生が世のため人のために尽くすという理念のもと、大河津分水の完成にむけて力を尽くしたことを話されていました。

市長が話します。「昭和2年、通水していた大河津分水の堰が陥没してしまいます。宮本武之輔(みやもとたけのすけ)という内務省技官が着任し、威信をかけて補修工事を行います。着任時に作業員に語ったあいさつが私の心に残っています。」

いわく「天の時を得ず、地の利を受けないこの工事は、人の和のみによって完成する」

補修工事中の昭和5年6月には、新潟を集中豪雨が襲っていました。宮本は、独断で全責任を負う覚悟で、工事中だった大河津分水可動堰の仮締切を切ってしまいます。そのおかげで、信濃川本流の水量が減り、越後平野に洪水が発生しませんでした。しかし、工事中の分水側の可動堰は壊れてしまい、工事期間が長引いてしまいました。工事より人命を優先した宮本の判断のお陰で、どれほどの越後平野の人々が助かったか計り知れないのです。

ついに、昭和6年補修工事が完了しました。

その後、越後平野の水害は激減し、米どころ新潟という大穀倉地帯が産まれました。新潟市の河口付近では、以前は、信濃川の川幅が800m近くあったのが、水量が減ったために埋め立てが進み、300mほどになったとのことです。そのおかげで、新潟県庁、朱鷺メッセなどの巨大建造物も建てられるようになり、土地の有効利用が進みました。

この物語にラジオスタジオでは、期せずして拍手が沸き起こっていました。

私もくるまの運転をしながら、感動して拍手を送っていました。30分ほどの番組でしたが、知的好奇心を掻き立てられる濃い内容でした。同時に2年前に長野県に起きた出来事にも思いを馳せてみました。

(以下は、ラジオ番組の内容ではありません)

今から2年前の10月、令和元年東日本台風(台風19号)が、各地に甚大な水害を起こしていきました。特に、千曲川沿岸では、大きな被害があり、長野市では堤防が決壊して、大規模な浸水が起きました。いまでも災害復旧工事が行われています。車両基地に留まっていた北陸新幹線車両が浸かりました、上田では上田電鉄鉄橋が陥没しました。

 

なぜ、下流の信濃川では大きな水害が起きなかったのだろうか?と思っていました。

長野市の千曲川が決壊して半日~1日たったころ、晴天の中だったにも関わらず燕市付近を流れる信濃川は、未曽有の水量になっていました。国土交通省は、信濃川本流の洗堰はすべて閉じ、大河津分水の可動堰は全開にしました。そのため長野県から流れてくる大量の流木と水は、ほとんどが大江津分水を経て日本海へ注いでいきました。越後平野は、他県の上流に降った大量の雨による水害からも、大河津分水によって守られていたのです。

 

信濃川の上流の長野県に住む一人として、いままで下流のことを考えたことがなかったのですが、このラジオ番組によって視点を変えることができました。

今度、新潟県に行ったらゆっくりと大河津分水の今を見に行こうと思いました。

コロナ禍ではありましたが、1週間にわたる出張を許可してくれた組合にも感謝しています。出張がおわり、私の家庭と会社では、会議にはリモート参加するなどの隔離処置を約1週間、自主的に行いました。しかし、自分としてはコロナに感染していないという科学的な自信がありました。

 

それは、地元飯田市が行っている抗原定性検査キットによる水際対策事業(社会実験)に参加していたからです。全国的に見ても先駆的な取り組みである、抗原定性検査キットによる社会実験については、次のブログまでお待ちください。

長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。

 

(追記;大河津分水の当時の写真 出典URL)

https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Ftsubame-kankou.jp%2Fseeing%2Fabout_ookoudubunsui%2F&psig=AOvVaw1mNd_yR2_dT8woDcnZBLeQ&ust=1627713359366000&source=images&cd=vfe&ved=2ahUKEwj70PX1loryAhUFzYsBHbKvAlYQr4kDegQIARA7

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ed/Okozu_Canal_under_construction.JPG

 

https://www.google.com/url?sa=i&url=http%3A%2F%2Fwww.hrr.mlit.go.jp%2Fshinano%2Fohkouzu100th%2Fohkouzu100th.html&psig=AOvVaw1mNd_yR2_dT8woDcnZBLeQ&ust=1627713359366000&source=images&cd=vfe&ved=0CK4BEK-JA2oXChMIkNjwh5eK8gIVAAAAAB0AAAAAEAQ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ページ上部へ戻る

お電話でのお問い合わせ