カテゴリー別アーカイブ: 社長ブログ

2026

03.20

3年に渡ったコロナ禍では、他人とマスクなしで会話することや、日常生活空間からの移動が厳しく制限されました。しかし、今考えるとコロナ禍があったからこそ、出会えたというような人の例が皆さんにもいくつかあるのではないでしょうか?私の身近に起きたそんな物語を連載してみます。

 

○○の星物語-1・・・一人の見知らぬ青年が我が家のチャイムを押した!

 

それはコロナ禍がはじまって半年したころ、2020年7月の暑い日曜日の朝、ひとりの見知らぬ青年が我が家の玄関のチャイムを押したところから物語がスタートします。玄関先にぽつんと立っているその青年は、カジュアルな服を着て背が高くメガネをかけた20代前半の若者でした。もちろんマスクをしていました。対応した私たち夫婦に、緊張しながらこのように切り出しました。

 

「あの~、こちらで畑を貸してくれると聞いたんですが…」

 

妻の知人から聞いてきたらしい。玄関先で2mの距離を取りながら、話を聞きました。なんでもコロナ禍で職場がリモートばかりになってしまったと言います。この青年をA君としましょう。A君は長野県の隣県の出身で、この年に就職してこの地にやってきたので、アパート暮らしだが、ずっと連日家の中にいて頭がおかしくなりそうだと言います。実家に帰ることもできず、毎日アパートの一室でパソコンとスマホでの仕事なので、体もなまり、同僚にも会えず精神的にまいっているといいます。

 

そこで、休日に、土に触れて畑を耕してなにかを植えたり、育てたり、収穫したりという野良仕事をすれば、いまの精神状態から脱することが出来るのではないかと考えて、どこかで畑を借りられないかと探していたということが分かりました。

 

我が家は、中山間地域に先祖代々つづく家ですが、父母の代まで一生懸命農業を広げてきた田畑が、家の周りにひろがっていました。私の代になってそれらが耕作放棄地になり、草ぼうぼうな状態でした。そのような耕作放棄地は、この地ではどこにでもあります。田畑を使ってくれるなら、私たち夫婦には、願ってもないことでした。

 

「うちにある鍬やトラクターなどの農機具は自由に使っていいよ。(家の目の前が畑だけど)いちいち我が家に顔をだして、その都度あいさつしなくていいので、好きなときにきて自由にやっていいよ。」

「ありがとうございます。では、天候をみて来週の土日から来ます。」

 

と言ってA青年はうれしそうに帰っていきました。

 

翌週、我が家の耕作放棄地の畑には、3~4台の車が停まって5~6人の青年がおりてきて畑を耕しはじめました。

えっつ、一人じゃなかったの?とA君に聞くと、職場で話したら、「おれも・・・」「俺も・・・」「わたしも・・・」「私も・・・」と参加者が増えたといいます。にぎやかになって、まぁ、いいかと見守ることにしました。

 

我が家の前にある耕作放棄地は、県道沿いにあるので、結構くるまが通ります。見慣れた耕作放棄地が急に見知らぬ若者たちであふれているので、近くの村人の軽トラックが時々停まって見ていくようになりました。何がはじまったんだ?・・・という感じです。

 

私たち夫婦は、いつころかその集団を「○○の星」と呼ぶことにしました。○○には、A君の職場の名前が入るのですが、ここでは伏せますので、ご了承ください。

私たちの会話は、こんな感じです。私「今日、○○の星の皆さんは来ていた?」妻「○○の星が、今日は3人来てたわよ。1台あった古い豆トラの動かし方を教えておいたわよ。」「○○の星は、今日は女の子もきてたわよ。聞いてみたら△△県出身だって!遠くから就職して偉いわよね。」

 

このようにして、○○の星の皆さんと我が家の交流が、コロナ禍をきっかけにして始まりました。

(次回へつづく)

2026

03.13

2023年3月13日、いよいよ日本ではマスク着用が個人判断へと舵をきりました。

これは大きな変化になります。思い起こせば、3年前の今頃は、小売店の店頭からマスクがなくなる供給不足に陥りました。全国の小中学校に休校要請がだされたり、コメディアンの志村けんさんがコロナが原因で亡くなられたりと、社会的な混乱がつづきました。当時の安倍首相から、初の緊急事態宣言がだされたのが、3年前の4月でした。

 

長かった~。

 

というのが本音です。この長かった期間に私たちの生活様式も随分と変わってしまいました。この春に中学校、高校を卒業された皆さんは、3年間マスク生活だったために、ほとんど級友の顔を見たことがない状況でした。この学生生活の経験が将来どのように影響してくるのかが、興味深く注目しています。

 

ところで、現在開催中のWBC(ワールドベースボールクラシック)で侍ジャパンチームが1次リーグを4勝0敗で見事突破しました。おめでとう!

テレビで観戦していると、東京ドーム開催中の12日までは、ほとんどの観客がマスク着用していました。

今後16日の準々決勝(対イタリア戦)が東京ドームで開催されます。その際の観客のマスク着用率の低下が明白になることによって、日本全国にマスクを外していいんだという安心感がうまれることが予想されます。今後は、マスク着用が確実に少なくなっていくことでしょう。WBCでの侍ジャパンの戦いとともに、東京ドームでの観客席のマスク着用率に対しても注目していきましょう。

 

PS。このマスクの下がどのようかは予想できませんよね。

 

マスクを外すと・・・

 

 

そうです、こんなにふくよかで、神々しい顔をされていたんですね。七福神のおひとり布袋さまですよね、耳たぶがふくよかで神々しいですね。

ともかく、私たちは前を向いて歩いていかなければなりません。ビジネスにおいても、この3年で培った経験を将来に向けて活かしていきたいと考えています。

 

(次回からは、コロナ禍3年間に我が家に起きた出来事について連載したいと思います)

2026

02.13

本日、2月13日の一か月後、3月13日まであと一ケ月のカウントダウンがスタートしました。

何のカウントダウン?と思われるかも知れませんが、なんでしょうか?

 

そうです。

先ごろ、政府は、新型コロナ感染症対策について、

「3月13日から、マスクの着用は個人の判断に委ねる。」

という基本的対処方針を発表しました。学校教育活動では、4月1日以降は基本的にマスクの着用を求めないとしましたし、それに先立つ3月の卒業式でも「マスクを着用せずに出席することを基本とする」としました。

今後、5月8日には、現在の新型コロナの感染症法上の位置づけを「二類」から「五類」へ移行することを決定しています。新型コロナへの対策としてのワクチン接種も、今後は、年に秋から冬にかけて一度接種するのが妥当との方針を発表しました。

つまり、限りなく「インフルエンザへの対応」と同等になってきたということです。

思えば、3年前のちょうど今頃、全国の小売店の店頭からマスクがなくなり、学校の一斉休校や初めての緊急事態宣言が出されたりと、新型コロナ感染にともなう混乱が始まりした。

やっと、丸3年の歳月をかけて終息を迎えることになります。

おめでとう、がんばったね!人類!

この3年間、人間の性(さが)を見せつけられるような出来事が多く起こりましたが、わたしの周りの皆さんは常に冷静に対応していました。わたし個人としては、人類って、スゴイなぁと思うことばかりでした。未知のウィルスという困難に立ち向かう専門家の人々がいて、知恵を出し合い、議論しあって、最終的には国がきちんと方針を出していくというプロセスがすごいなぁと思うことばかりでした。

特に日本では、国や行政と個人の信頼関係がきちんとできていて、すごいなぁと思っていました。

会社も常にそのような信頼関係で成り立つ関係でありたいと思いました。

 

 

 

 

2026

01.05

新年明けましておめでとうございます。

2023年、令和5年、うさぎ年が穏やかにスタートしました。

皆さまはどのようにお過ごしでしょうか?3年ぶりの行動制限のない正月でしたので、各地では人出がすごかったですね。でもこれが本来の正月だったのですね。以前のことが思い出せないくらい長いコロナ禍でしたね。

当社は、昨年は普通では経験できなようなことをたくさん経験させてもらいました。今年は、一皮むけて、新たなスタートを切りたいと考えています。個人的にも還暦を越えて新たな段階に入ったつもりです。

ケンタッキーフライドチキンを創業したカーネルサンダースは、60歳を超えてからフランチャイズ展開を始め、一気に世界的なチェーン店に発展させました。それまでは米国ケンタッキー州の片田舎でお店を1店舗経営していただけでした。90歳で亡くなったときには、世界に6000店舗のケンタッキー店があったといいます。世界的なプロスキーヤーの三浦雄一郎氏は、80歳になったときに3回目のエベレスト登頂に成功しています。こんなすごい人たちにちょっとでも近づけるように頑張っていきたいと思います。

●ポスティングの「まかせてグループ」

●住宅購入相談所の「すまいポート」

●貸ホールの「南松ホール」

を本年もよろしくお願い申し上げます。

有限会社ペーパー・シャワーズ 代表取締役 村松昭文

⇓本社のとなりの会社の松飾が毎年豪華でほれぼれとしています。職人技ですね。どんど焼きで燃やすのはもったいない芸術品級です。

2026

10.26

先日、ご招待を受けて社員の結婚式に参加してきました。

コロナ禍を越えて、約3年ぶりにこのような大勢の方々が集まる結婚式が開かれるようになったと感慨深いものがありました。当人たちもだいぶ悩んだようですが、やはりリアルで集まる結婚式を開催することを決断したと言っていました。

 

 

大正解!でした。リアルにまさる結婚式はありません。いろんなところにコロナ感染症対策のアイディアが散りばめられていましたし、結婚式のあり方もかなり変わってきたなと思いましたが、基本は同じです。いままで育ててくれた新郎・新婦それぞれのご両親やご家族・ご親戚のみなさんへ感謝する大事なイベントです。また、2人が結婚したことをひろく世間一般へ宣言・アピールする儀式でもあります。

 

結婚式のあとの披露宴も、細かなアイディアがたくさん見受けられました。2人の人柄が分かる大変印象深い披露宴でした。

私は、車の運転があったのでアルコール類は一切飲みませんでしたが、できればお酒も入れてお祝いしたかったなぁと思いました。

 

これで何回目の社員の結婚式に呼ばれたのだろうか?一緒に招待された社員とそんな話になりました。いままでご招待をうけた社員は、皆、幸せ(そう)な家庭を築いていることに気が付きました。扶養家族が増えた家族も多くあります。

このような当たり前のことが今は非常に貴重な出来事のようにおもえます。社員の扶養家族が増えることはいいこと、それは会社が発展していくためにも重要なことだと思える今日この頃です。

F君、本当にご結婚おめでそう、姉さん女房の奥さんも気さくで話しやすい方ですね。また、一緒に飲みましょう!

(仕事もがんばってください!)

 

2026

10.15

(前号からのつづき)

 

東北から帰ってきて、私も日常の生活に戻っていました。

9月になって稲穂が色づき、稲刈りが始まるころ、私の家に東北のあの町の消印のある一通の手紙が届きました。

 

そこには、あのことば「克勤克儉」の読み方と意味が書かれていました。

斎藤實記念館の学芸員さんが、一生懸命にまわりの方々に聞いてくれて、判明したということでした。ちょっとした会話から、長野から訪ねて行った変わったおじさんのために、時間をかけて調査してくれたことが文面からも推察できました。

 

さて、本題です。

 

「克勤克儉」の読み方は、

「よくきん よくけん」

でした。

意味は、

「職務を成し遂げても、行いを慎んで控えめにする」

ということでした。

 

出典は、唐人の処世訓(身を守るの所為)のなかにある一節で

「克勤克儉無怠無荒」からきているということでした。

 

こちらの読み方は、

「よくきん よくけんに たいなく こうなし」

になるそうです。

また、その意味は、

「心を尽くし 職務を成し遂げ

 行いを慎んで控えめに

 怠りなく励めば

 見捨てられる(無視される)ことはない」

ということでした。

 

 

この夏、日本の首相だった人物が選挙演説中に41歳の男性が撃った凶弾に倒れるという衝撃的な事件が起き、それをきっかけに郷土の公民館に掲げられている扁額を思い出してしまいました。

昭和8年に日本国の首相だった人物は、禁酒をして村の財政を立て直した全国の村長さんを首相官邸に招いて、ほめたたえたあと、「克勤克儉」の扁額を贈りました。扁額を贈られた村では、それを大事に後世に伝えてきました。

その後、扁額を贈った首相は、首相退任後でしたが欧米寄りの姿勢を批判されて、二・二六事件で青年将校に殺害されていました。

 

 

「克勤克儉」の読み方や意味を探して、東北の斎藤實記念館にまで行ってしまいました。その町が、大リーグエンゼルスで大活躍中の大谷翔平選手が育った地とは知りませんでしたが、新たな発見でした。

なぜそこまでして、このコトバの読み方や意味を知りたかったのかは、今となってはよくわかりません。しかし、私や当社がいま必要としているコトバだったような気がしてきました。

 

いまは晴れ晴れとした気持ちで、秋晴れの空を見上げることができるようになりました。

 

 

私のひと夏の冒険に5回にわたりお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

Special thanks  to 斎藤實記念館 学芸員のⅠ様

(完)

 

2026

09.28

(前号からのつづき)

ぶらぶらと斎藤實記念館から、在来線の最寄り駅に向かって歩きました。するといたるところから「大谷翔平」の名前が目に飛び込んできました。

 

宝石店でも

 

お茶やさんでも

 

スポーツ店でも

 

 

 

そしてJRの駅前の広告塔にもおおきな大谷翔平が踊っていました。

 

 

そうです。ここは、大リーグエンゼルスの大谷翔平選手が、中学生までを過ごした町でした。花巻東高校で全国にその名を轟かすまでは、大谷翔平選手はこの町で普通に少年時代を過ごしていたのです。この駅にも、あのスポーツ店にも寄っていたに違いありません。

 

 

↑駅の待合室にも、大谷翔平選手が普通にいたことでしょう。

 

もう何年かすれば、大谷翔平記念館がこの町にできるに違いありません。東北新幹線のタクシー乗り場には、人があふれるかも知れませんし、待合のタクシーも途切れなくなるかも知れません。郷土の偉人となる日も近いでしょう。もしかしたら、もうすでに偉人かも知れませんね。

 

いつの時代にも、郷土に誇れる偉人がいるといいですね。

 

その後、東北から帰ってきて、私も日常の生活に戻っていました。

 

9月になって稲穂が色づき、稲刈りが始まるころ、私の家に東北のあの町の消印のある一通の手紙が届きました。

(つづく)

2026

09.22

(前号からのつづき)

 

ここに昭和8年(1933年)ごろの新聞記事があります。おおよそ、書いてあることはこんなことです。

 

「昭和8年9月1日、関東大震災の記念日に明治神宮外苑にある日本青年館にて、東京都下の20村の村長が集まる会合で、全国の禁酒村の村長を招いてその活動を聞く集まりがあった。招かれたのは、青森県三好村、茨城県高田村、神奈川県大澤村、石川県河合谷村、石川県笠谷村、富山県南谷村、愛媛県日振島村、香川県栗井村、岐阜県間瀬村、長野県三穂村の10村の村長でした。

全国禁酒村の草分けである石川県河合谷村の森山村長からは、全村禁酒に励んだ結果、貧乏な寒村に学校を建てることができたと報告があった。また、禁酒を実行してからの村は、

  • 病人が5割減った。
  • 貯金が5年間で3万円もできた。
  • 全村300戸のうち、2割近い50数戸が改築された。
  • 伝染病が皆無になった。
  • 訴訟、喧嘩がなくなった。
  • 犯罪が皆無となった。
  • 花柳病(性病)患者が0パーセントになった。

など良いことばかりになった。

翌2日には、10村の村長は首相官邸を訪問し、斎藤實首相へ直接意見を開陳した。」

 

時の首相、斎藤實は、全村の村長に、「よくやりました」とほめて、「克勤克儉」の扁額を送ったということでした。

 

昭和初期の日本は、ニューヨーク市場での生糸大暴落後の世界恐慌の中で、「貧富の格差拡大」「物価の高騰」「農村の疲弊」「雇用への不安」「関東軍の暴走」など令和の現代にも通じる状況でした。主要人物の暗殺も相次ぎ、社会不安が増長していました。そのような時代において、全国で禁酒を励行する村が表れて、首相官邸において表彰されたということになると思います。

 

10村のひとつ、長野県三穂村が、私が生まれた村です。三穂村では、斎藤實首相からいただいた扁額を大事に公民館で保存し、後世に伝えてきました。故郷を離れてずっと過ごしていた私もその事実を知ってから、郷土に誇りを持てるようになりました。

 

公民館で保存されている扁額がこれです。

(儉克勤克は、見たままですが、戦前の漢字などは、読むときは右から読むので、克勤克儉が正しいことばの順序でした。)

 

しかし、正確な読み方、正確な意味を知る人がいなくなっていました。

そんなとき、安倍元首相の暗殺事件をきっかけにこのことを思い出してしまったのでした。

 

その当時の三穂村村長の林治郎が作詞した「三穂更生歌」なる歌詞も公民館に飾られています。そこにも「克勤克儉」の文言が見られます。(歌までつくってしまったすごい!村長ですね。)

 

斎藤實首相は、なぜ、この言葉を禁酒村村長に贈ったのだろうか?

 

そもそも読み方は?その意味は?

 

と知りたいことが次から次へと湧き出てきました。

 

しかし、なぜか斎藤實記念館を訪れたことにより、達成感でいっぱいになりました。記念館を出た私は、そんな故郷の歴史を思いながら、最寄りの在来線の駅までしばらく歩くことにしました。

古民家を改築した町の資料館なども見学して、駅に向かって歩くと、そこは「大谷翔平」であふれている町でした。

(つづく)

 

2026

09.14

(前号からのつづき)

タクシーは、平坦な道を住宅街に沿ってどんどん進みます。景色から東北を特徴できるものは見当たりませんでした。

私「斎藤實って、地元ではどのように思われているんですか?」運転手さん「もちろん、郷土の誇りですよ。5年くらい前までは、市も力をいれて記念館をアピールしていたけど、最近はあまり聞きませんね。最近の若い人は、斎藤を知らない人もいるかも知れません。タクシーの運転手の講習会でも、観光客にこういうふうに話すようにといったことを学ぶんですが、最近は斎藤實記念館へ行く人も少ないねぇ。」

私「二・二六事件で殺されたというところしか、知られていないかもねぇ。ところで、いつも駅前にはタクシーが待っていないんですか?1台もいなくて今日、びっくりしたんですけど。」

運転手さん「あぁ、すみませんねぇ。今週から4回目のワクチン接種が始まったんで、高齢者を接種会場へ運ぶんで、忙しくてねぇ。」

私「そうだったんですか、経済がきちんと回っていていいですねぇ。」

こんな会話をしていると、ほどなく斎藤實記念館に着きました。

 

 

 

大きな森のなかに、瀟洒な洋風な記念館がみえました。入り口で入場料を払い、コロナ対策の連絡先を書いて、中に入りました。先ほどお金を受け取った女性学芸員さんが、館内を先回りして、電気をつけてくれました。どうやら、私が本日最初の来館者のようです。

 

斎藤實(さいとうまこと) (1858年生~1936年没、昭和7年5月~昭和9年7月内閣総理大臣)

総理大臣であった犬養毅海軍将校らによって殺害された五・一五事件のあとの第30代内閣総理大臣として、陸軍関東軍による前年からの満州事変など混迷した政局に対処し、満州国を認めなかった国際連盟を脱退しながらも、2年1か月という当時としては長い政権を保ったが、帝人事件での政府批判の高まりにより内閣総辞職した。その後内大臣となって宮中にまわったが、直後に二・二六事件で暗殺された。(ウィキペディアより)

 

私は、静寂な館内である言葉を探して展示物をひとつひとつ見ていきました。今回の東北の旅の目的は、「ことば」探しでした。記念館のなかはこじんまりとしており、分かりやすい順序で斎藤實の生涯が分かるようになっていました。特に、二・二六事件の展示物には、圧倒されましたが、とりあえず私の目的はある「ことば」を探していました。

 

 

ここにもない、ここにもない。

ついに斎藤實の書庫の部屋にたどり着きました。すごい量の蔵書と書物・出版物がきちんと整理整頓されていましたが、このなかから「ことば」を探すのは容易ではありません。ついに、あきらめました。

 

 

帰り際に、来館者ノートというのがあったので、私はそこに書き記しました。

 

 

 

 

 

 

そうです。私はこの「ことば」を探してきたのです。先ほどの女性学芸員の方にもそのことを伝えました。

学芸員「斎藤は、多くの書を残しており、その書が日本全国に散らばっています。もしかしたら、同じ「ことば」があるかも知れません。ちょっと、お時間をいたただいて、必ずやお返事したいと思います」

と言ってくれました。「ありがとう」と礼をいって、記念館をあとにしました。ちょうど、玄関をでて、庭を歩いていると、本日2人目の来館者が私とすれ違いに玄関に入っていきました。時はすでにお昼時になっていました。

 

なぜ、その「ことば」を探して、東北の斎藤實記念館にまでやってきたのか?それは、禁酒村の歴史にありました。

 

(つづく)

2026

09.07

今年の夏は、3年ぶりの行動制限のない夏となりました。だんだんと手探りで経済を回していこうという気運が高まってきました。コロナ感染者へのひどい誹謗・中傷もなくなり、ふつうのインフルエンザなみの感染症だという認識が広がってきました。いいことです。

私にとってもポスティング業界の歴史においても、さまざまな出来事に翻弄された記憶に残る夏となりました。世間を賑わしたニュースとしては、参議院選のさなかに安倍晋三元首相が銃撃されて亡くなるという事件でした。この日本でこんなことが起きるのか?とほとんどの人はびっくりしたと思います。

一国の首相経験者が、公衆の面前で殺される!

本当にショッキングな出来事でした。

さて、そのころから私の中にふつふつと湧き出る決意が固まりつつありました。以前からぜひ行きたいと思っていたところへ行ってみよう。

 

よし、東北へ行こう!

 

8月のある日曜日、猛暑の中、私は一人で東北新幹線に乗り込みました。

もちろん初めていく場所でした。目的の駅につくと、大瀧詠一の「君は天然色」メロディーが駅の構内で鳴り響いていました。若いころに大ヒットした懐かしいメロディーでした。

駅前のタクシー乗り場に行きましたが、1台も停まっていません。それどころか暑い日だったこともありますが、誰一人として歩いていません。駅前によくあるようなビルや飲食店や土産物屋さんもありません。閑散とした地方の駅でした。本当に新幹線の駅なの?という感じでした。

 

しばらく立っていましたが、タクシーがくる気配が一切ありません。そこで、タクシー乗り場の張り紙をみて、タクシー会社へ電話をしました。「駅前にいるんですけど、1台お願いします。」「はい、わかりました。10分くらいで行かせますので、乗り場のところでお待ちください。」

タクシー乗り場でも、私ひとりだけでぽつんと待っていました。話しかける人もいません。(キツネにつまされた気分というのは、こんな感じかも知れません)

約束通り10分ほどして、古いクラウンのタクシーがやってきました。私はタクシーに乗り込んで、行き先を告げました。

「(第30代内閣総理大臣の) 斎藤實(さいとうまこと)記念館へお願いします」

(つづく)

 

 

 

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