カテゴリー別アーカイブ: 社長ブログ

2024

12.13

私が今住んでいる場所は、子どものころ育った家です。思えば、高校卒業と同時にいろんなところに住み、引っ越しを繰り返してきました。数年前に、いろんな場所を放浪してから、元の家に戻ってきました。

そのため、自分の生まれ育った場所の環境と歴史を深くは知りませんでした。

先日、回覧板が回ってきたのでじっくりと回覧物を読んでみたところ、新たな発見がいくつもありました。

①環境

1枚のチラシが回覧板に挟まれていました。「地元で買い物ができるお店」~「〇〇地区内のお店」一覧でした。当地区は、中山間地区のため人口流出が激しく、地元に雑貨店が2つと国道沿いにコンビニのファミリー・・・が1店あるだけです。そのチラシがこれ。

(一部、青で塗りつぶしてあります、すみません)

よくよく読むとこんな記述が・・・・なになに・・・・

最初のお店 

〇〇〇屋商店 営業時間7;30~18;00、定休日;日曜日、店主不在時

 

 

定休日が、日曜日と店主不在時   すばらしい・・・

 

 

 

次のお店は、

〇〇商店 営業時間;日の出~日の入り、 定休日;店主不在時

 

 

営業時間が、日の出から日の入り 定休日が、店主不在時   すばらしい・・・

こういう地域の環境で私は育ったのか?と誇らしく思えてきました。

 

②歴史

当地は、干し柿で有名な地区で、家々が秋から冬にかけて柿一色に染まるほどです。

     ↓

     ↓

回覧板に地元の公民官報が入っていました。じっくりと読むとこんな物語が…。

地元の公民館の講堂には、こんな大きな油絵が飾られています

昭和初期のころのこのあたりの農家の様子です。中央の黄色い山は、柿の山です。そこを崩しながら多くの人で一斉に柿剥きをしています。昼間は柿をとり、夜なべ仕事で親戚や地域の人が集まって、ひとつひとつ手作業で柿の皮を剝いています

囲炉裏のなべには、仕事が終わったときの夜食?がぐつぐつと煮えています。そして、柿の山のてっぺんにはお菓子がおいてあります。柿をたくさん剥くスピードが速い人のところに、自然と落ちてきます。

この絵には、共同作業をするうえでの、ノウハウの極意が描かれています。

・柿の皮を剥くのが速い人には、ご褒美としてお菓子が落ちてくる。(ご褒美=インセンティブ)

・全員で柿の皮を剥き終わったら、仕事の早い人も遅い人にもおいしい夜食が待っている。(共同作業後の慰労)

・全体の仕事のすすみ具合がわかる。(見える化)

私がいま、ポスティングと軽作業専門業務請負 業を営んでいる原点をみたような気がしました。

私がこどものころ、確かにこのような風景を見たおぼえがあります。

 

時には、回覧板でまわってくる資料をじっくりと目を通してみましょう。あなたの地域の環境と歴史を学ぶことができます。

 

 

 

2024

11.29

8月29日は、焼き肉の日でした。

11月29日は、飯田焼き肉の日です。(記念日認定委員会が認定しています)

長野県飯田市という地域は、日本でもっとも人口当たりの焼き肉店が多い町なんです。交通が不便な山国だったからこその、独特の焼き肉文化が根付いています。

そこで、11月29日です。前日の新聞にも大々的にイベントの告知がでていました。

 

飯田駅前の広場で、「飯田焼き肉の日」に、「最も長い鉄板」でギネス世界記録に挑戦するというイベントが開催されていました。なんと、11.29mの長い鉄板を使って市民皆で焼き肉を食べようというイベントでした。公式ギネス認定員も参加していました。

鉄板の重さは500kgで、40人~50人で一斉に焼き肉が味わえるというも特注品です。クラウドファンディングで寄付した人の名前が刻まれていて、イベントに招待されていました。

遠くてよくは、見えませんでしたが、ここに鉄板があり、すでに焼き肉の煙とおいしそうな匂いが会場いっぱいに漂っていました。

 

あれ~、なかに野球選手がいますね。

えっ、あれは、イチロー?

 

 

いやいや、ニッチロー(イチローものまね芸人)でした。飯田市の焼き肉大使です。

 

飯田市長とニッチローさんが、一緒に焼き肉をほおばっていました。

こどもも焼き肉大好き、こんなイベントからこどもに焼き肉文化が引き継がれていきます。

おそるべし、飯田焼き肉の日。11月29日。忘れないようにしてね。

 

 

 

2024

10.11

あるレストランで、珍しいものをみました。

 

これ、どう考えても「令和」ですよね。ちょっと、文字が強調されている感じは、ありますが・・・・

 

となりに、「回してみてね」と書かれていたので、まわしてみました。

まず、左まわりに90度まわしてみました。

もう一回90度まわしてみました。

つまり、上下逆にしたわけです。

すると・・・・

おどろきの・・・・

なんと、「平成」に大変身!

面白いことを考える人もいるもんだ・・・

と思い、会計しながら店員さんに聞いてみると、

「う~ん、うちで働いていた人が辞める時に、書いて置いて行ったのよ・・・

わっはっはっつ・・・」

辞めた従業員の置き土産?

何者でしょうか?気になりますね。

2024

09.28

ある日のお昼時に、突然見知らぬ男性(60代?)が当社事務所へ来社されました。

男性「社長さんですか?1年前にお世話になったという息子からのお礼です、私、父ですけど、どうぞ南信濃でとれたマツタケです・・・」

私「えええええっ、あなたは誰ですか?息子さんて誰ですか?」「お世話にって何ですか?」

 

 

頭が真っ白になってその男性の話を聞きました。早口に一気に話す男性の話を総合すると、つぎのことのようです。

約1~2年前、この男性の三男さんがくるまで当社の前を通ったら、電気自動車が停まっていたので、引き返してきて、当社を訪ねてきたそうです。たまたま会社にいたので、私が対応して敷地内をちょっと一緒に乗って見せたようです。その対応に三男さんが感動して、家に帰ってから周りに話をしてくれたそうです。

 

会社に停まっていたくるまが、話題のアメリカの電気自動車だったので、大はしゃぎで話したそうです。そして、いつかお金をためて電気自動車を買うぞと言っているようです。三男さんは、就職で鹿児島へ行っているようですが、その息子さんに頼まれてお礼を言ってほしい!と言われて、お父さんが来社されたようです。

どうやら、いろんな話をお聞きすると、この男性(父)を含めて、長男、次男、三男さん、皆さんくるまが大好きなようです。お父さんもかなりの車通とお見受けしました。

私、確かにそんなことがあったような・・・気がしますが、良くは覚えていません。

時々、「あそこに停まっている車を見せてくれませんか?」という通りすがりの方がいるので、いつものようにお見せしただけだったと思います。

こんなにマツタケをもらうような特別なことをした・・・覚えはございません。

いやいや、そんなそんな・・・と言っているうちに、私の手はしっかりと伸びていました。マツタケがたわわに入った箱をもらってしまいました。

南信濃のTさん、ありがたくいただきました。特別なことをした思いはありませんが、折角訪ねてくださったので、いただきました。そして、短時間でしたが、未来の車に対して意見交換できたのは、大変楽しかったです。また、当社の前を通ることがありましたら、お気軽にお寄りください。

私は、田舎に住む者こそ、最先端の電気自動車が生活スタイルに合っていると考える者です。最寄りのガソリンスタンドへ行くのに往復30分もかかる田舎に住んでいても、電気は少なくとも自宅まで来ています。自宅で、寝ている間に充電することができます。電気自動車が田舎には合いますよね。

未来はすぐ、そこに来ています。

若い人たち、子供たちに、「あなたの未来は明るいんだよ。わくわくする未来が待っているよ。」と言えるおじさんになりたいと思っています。

 

1台の車が、知らない人どおしを結び付けて、同じ話題で盛り上がる。そして、時には、お土産までいただいてしまう・・・・、なんて。確かにこの車には、すごいパワーが宿っているんだろう!

と思える出来事でした。

(追記)

そういえば、アメリカ大リーグ エンゼルスの大谷翔平も同じ型の車に乗っていると聞いたときにも、車のパワーを感じました。そうやって、連想して自分を高めていくことにしています。

今夜は、マツタケにパワーをいただきましょう。ご馳走様です。

(パワー充電中!)

 

 

 

 

 

2024

09.21

長野県の一部の地域では、昔からたんぱく源として昆虫を食べる文化がありました。

地元新聞社もこのような本を出版しているくらいです。

その中には、カブトムシやその幼虫を食べるといううわさにも迫っています。

長野県のある地方の道の駅や、高速道路の土産店にはこのようなコーナーもあります。

 

POPもすごいですね。いなご、蜂の子、蚕のさなぎ、ザザムシと、なにやらきわどい言葉が並んでします。ビギナーさんは、いなごからどうぞ、だんだんとDeepになっていくという順番でした。賞品のパッケージも今の時代に合わせていますね。

 →いなごおかき

「何でイナゴ入れたん!?」信州のおみやげ~松本大学矢内研究室監修 

えっつ、なんで大学のお墨付きが必要なんだろう、でも楽しそうな研究室だなぁ。

→はちの子パイまんじゅう

「何で蜂の子いれたん!」ギャアアアア 

およそ食品のパッケージとは思えません。

昆虫食ブームもここまで来たかと感慨にふけっていると、風のうわさに、長野県の北信地方の個人商店には、昆虫食を売っている自販機があるという情報が入ってきました。私が住んでいるところから230km以上離れているので、長野市出身の若者に帰省時に頼んで買ってきてもらいました。

その彼が自販機の写真も撮ってきてくれました。

 

購入していたら、この商店の店主らしき男性がでてきて、「どう、いいでしょう。珍しいでしょう。」と声かけてきたそうです。その勢いをかって、4つの昆虫を買ってきてくれました。それが、この昆虫たちでした。

左から、「たけむし」「カイコのサナギ」「サゴワーム」「イナゴ」です。どれも瓶に入っていて、1個700円です。4つで2800円です。

たとえば、・・・「カイコのサナギ」は、こんな感じです。(心臓が弱い方は薄目でご覧ください)

聞きなれない「サゴワーム」とは、ヤシオオオサゾウムシのこと。と言われても良く分かりませんが、こんな感じです。(心臓が弱い方は薄目でご覧ください)

ええい、一層のことすべて開けてならべてみましょう。

 

繰り返しますが、

心臓が弱い方は、薄目でご覧ください。

いなごおかき(左)も、蜂の子パイまんじゅう(右)もならべてみました。

長野県=信州にはすごい食文化があるんだなぁと改めて思いました。やっと、世の中が信州の食文化を再評価する時代になったのか?最先端を行っていっていたとは・・・。

お味のほうは、はっきりと言って見た目のグロテスクさに神経が集中してしまって、味わうゆとりがありませんでした。

 

 

 

 

 

2024

09.09

当社も加盟している日本ポスティング協同組合の事務局は、東京新橋のオフィス街にあります。あるときの私と事務局長Kさんの電話での会話です。

私「Kさん、新橋にバリ男っていうらーめん屋ありますか?」

k「あぁ、あるよ、二郎系の濃厚豚骨スープが有名だよ。」

私「へぇ、今度私の住んでいる長野県飯田市でバリ男のらーめんが食べられるようになったよ。」

K「あっつ、知っているよ、自販機でしょ。らーめん界では有名な丸山製麺の麺をつかっているからね。東京都内でもその自販機が増えているよ。」

私「そうなんだ、じゃあ、今度食べてみるね!」

ということで、自販機をさがして飯田の街をさまよいました。

ありました。カップめんではありません。バリ男など全国の有名なラーメン(冷凍)

が選べます。雷神餃子というものもありました。どれでも1個1000円です。

じゃあ、折角なので、バリ男と雷神餃子、2000円を入れて液晶のボタンを押しました。

 

家に帰って、湯煎していただきました。

 

濃厚スープで、このあたりではあまりお目にかかれないらーめんでした。

「ヌードルツアーズ」というこのブランドの自販機は、長野県1号機のようです。なんでも飯田市の地元製麺工場の2代目社長が、東京大田区の丸山製麺に修行にいっていたご縁で、設置されたとか。

コロナ禍であっても、このように東京の有名ラーメン店の味が楽しめるなんて、ありがたい世の中になりましたね。

 

(次回ブログでは、信州人の虫を食べる文化に注目し、虫の自販機?にも迫りたいと思います 乞うご期待)

 

 

 

2024

08.30

皆さんの近くの精肉店は、毎月29日を肉の日として、なにか安くしてくれるとかサービスがつきませんか?私たちも29日は、に・くと読めるので、分かりやすいですね。

ところで、

8月29日は、「焼き肉の日」でした。

2(に)・9(く)の前に8(や)が付いたからです。

長野県の南信地方を地盤とする地域日刊紙には、大々的に焼き肉の日の特集がなされていました。

 

ここ飯田市は、日本一の焼き肉の街なんです。なんでも、人口あたりの焼き肉店の数が、日本一なのです。飯田市は、人口100,702人に対して焼き肉店の数が、53軒あるので、

人口1万人あたりでは、5.26軒で、日本一なのです。

ちなみに、2位は、沖縄県石垣市で、5.02軒(人口49824人に対して25軒)

     3位は、北海道北見市で、4.80軒(人口16630人に対して56軒)

と続きます。ちゃんと、数字に裏付けされているのですね。日本一の焼き肉の街の称号が・・・。

 

山間地の地方都市である、飯田市にこれだけの焼き肉の文化が定着しているのは、歴史と文化が大きくかかわっています。飯田の子供たちは、地域のお祭りや会合や野球大会の後には、必ずブルーシートを敷いて、焼き肉をするという文化に、小さいころから慣れ親しみます。地域社会との接点は、焼き肉がきっかけで、人の輪が広がるのです。

「焼来肉ロックフェス」という野外ロックフェスも開催されていました。2年ほど中止になっていますが・・・。焼き肉親善大使には、イチローのものまねで有名なニッチローさんが務めています。

そして、もうひとつの記念日が、

11月29日は、「飯田焼き肉の日」なんです。

コロナが落ち着いたら、ぜひ、みなさん「日本一の焼き肉の街」にお越しください。そして、一緒に飯田の焼き肉文化に触れてみましょう。

 

(予告;次回のブログでは、飯田にあるらーめん自販機を紹介しましょう)

2024

08.17

おもえば、たかだか1週間前に感動の東京オリンピックが閉幕しました。猛暑の中、マラソンランナーも陸上競技もよく工夫して大会が開催できたなぁと感心していました。

(本来は、屋外スポーツには最も適していない時期に開催された五輪でした)

それからの1週間は、「例年はこうです」というフレーズが使えないほど、急激に変化しています。

まずは、天候。最高気温が27℃という10月上旬の気候になりました。そして、秋雨前線が長期停滞して起こる長雨、線状降水帯の発生による豪雨などにより土石流の発生や河川の堤防越水の危険性が増大しています。注意報、警報がこれでもかという勢いで出されています。

 

みなさまのお住まいのところでの被害がないことをお祈りしています。

今後は、稲や果物への農作物の収穫量への影響も心配です。

次に、全国的に新型コロナ感染が爆発的に拡大しています。もはや、新型コロナウィルスは、本当に身近にまで迫ってきているという感じです。あれほど、待ち焦がれたワクチン接種も、いざ打てるとなると様々な情報に振り回されて、接種を躊躇する人々が多数でています。どうして、こうなってしまったのだろうか?と不思議です。

ひきつづき、感染予防には留意していきましょう。

みなさまに、例年のように、「残暑お見舞い申し上げます」と言える日がくることを待ち焦がれています。

 

時節柄、いろいろとあります。用心して日々過ごしていきましょう。

 

2024

07.27

私の住んでいる飯田市では、6月~7月にかけて、新型コロナウィルス感染症対策として、県外との往来があったり、県外から親戚などを呼んで交流のあった住民を対象に、抗原定性検査キットを活用した水際対策事業を行っていました。

私も日本ポスティング協同組合の事業で、県外を1週間にわたり旅する出張があったために、あらかじめ申し込んでおきました。そして、帰宅後3日目についに抗原定性検査キットを開けて、検査してみました。

これが、送られてきていた梱包物などです。(手鏡のみが、私の持ち物です)

まず、鏡を見ながら綿棒を扁桃腺にこすりつけます。

  

綿棒で、チューブに入った液体をかきまぜます。そのチューブをもって、判定部のキットに2滴垂らします。

そして、判定部の横の線(rライン)の数をかぞえます。最初は、ピンクの線が1本のみ表われています。

 

 

約5~30分かかります。

この時間が、ドキドキの時間です。

rラインが、青になり、1本だけなら、陰性、2本現れたら、陽性、ということです。

 

 

 

現れました。青の線1本だけでした。これで抗体定性検査としては、陰性ということです。

ほっつ!

簡単にできました。家庭でも一人でもできます。

もし、青い線が2本出たら、保健所へ連絡して、次の段階としてPCR検査を行うという手順になっています。

飯田市では、5000セットを希望者に無料頒布して社会実験を行い、水際対策に役立つかどうかを見極めたいとしていたのです。

幸いに、6月~7月にかけては、飯田市では、新型コロナ感染者数が、ほんの数人に収まっています。感染者が広がっている状況ではありません。

私も社会実験に協力した1人として、アンケートに記入して飯田市へ提出しました。

 

長い長いコロナ禍の時代が続いています。しかし、人間は創意工夫して、困難に立ち向かう能力を持っています。時間の経過とともに、得られた知見があり、感染症対策も進化していきます。飯田市のように、打つ手は無限大と考えて・・・・世間の批判を恐れずにいろいろなことを試してみる姿勢が私たちにも試されていると思います。

 

東京オリンピックが開催できたことも、きっといい方向へ行くのではないかと思っています。

 

私も県外出張がなかったら、このような水際対策事業へ協力しようなんてことも考えなかったと思います。自分が動くことで、関係する様々な情報が入ってくるようになりました。このような雑多な情報から取捨選択して自分で考え抜く力も、沸いてきました。会社経営にも役立てていこうと思います。

 

2024

07.19

組合から頂いた仕事のために、出張中にカーラジオから聞いた話です。

くるまは、北陸道を一路北上していました。日本海が見えるあたりで聞いた話です。

大河津分水 = おおこうつぶんすい

なんのことでしょうか?まず、中学生の地理の時間にもどして知識を整理してみましょう。

長野県内を流れる、梓川、奈良井川、犀(さい)川、千曲川などの一級河川は、北上するにしたがって、一つにまとまり、新潟県に入ると、信濃川と名前が変わります。水量を増やした信濃川は、越後平野を潤し、新潟市で日本海にそそぎます。私が書いた地図を参考にしてください。

 

しかし、下流の新潟市を含む越後平野の人たちからみると、信濃川は、水量が多く、毎年のように大洪水をもたらすやっかいな川だったのです。江戸時代末期から、なんとか水害から守る方法はないかと住民から、根本的な治水工事を行うように、お上へ陳情が繰り返されていたそうです。

特に、明治29年(1896年)横田切れと言われる大洪水は、3ケ月に渡り越後平野の水が引かず、赤痢も発生し、何千人ものかたが亡くなり、農作物も大打撃を受けた大災害でした。そこで、明治政府がついに大工事をする決断をしました。

それは、燕市を流れる信濃川から分水路を掘り、直接日本海へ流す計画でした。これにより、信濃川本流の水量を減らし、安心して生活できる基盤ができます。明治42年着工、大正11年通水、昭和6年補修完了という東洋一の大工事だったそうです。本流には、洗堰、分水側には、可動堰という水量を調整できる堰が設けられています。

全長9.1km、途中にある標高100mを超える山地を掘るという前代未聞の大工事に、外国製の巨大掘削機械をいれて、のべ1000万人が工事に携わりました。

この人工的な分水路が、大河津分水なのです。

 

(↑ネットのサイトなどから引用しました)

ラジオでは、地元燕市の市長と女性パーソナリティのやりとりでこの工事の困難な物語を語ってくれました。燕市には、江戸時代長岡藩にあった長善館という漢学の私塾があり、そこの卒業生が世のため人のために尽くすという理念のもと、大河津分水の完成にむけて力を尽くしたことを話されていました。

市長が話します。「昭和2年、通水していた大河津分水の堰が陥没してしまいます。宮本武之輔(みやもとたけのすけ)という内務省技官が着任し、威信をかけて補修工事を行います。着任時に作業員に語ったあいさつが私の心に残っています。」

いわく「天の時を得ず、地の利を受けないこの工事は、人の和のみによって完成する」

補修工事中の昭和5年6月には、新潟を集中豪雨が襲っていました。宮本は、独断で全責任を負う覚悟で、工事中だった大河津分水可動堰の仮締切を切ってしまいます。そのおかげで、信濃川本流の水量が減り、越後平野に洪水が発生しませんでした。しかし、工事中の分水側の可動堰は壊れてしまい、工事期間が長引いてしまいました。工事より人命を優先した宮本の判断のお陰で、どれほどの越後平野の人々が助かったか計り知れないのです。

ついに、昭和6年補修工事が完了しました。

その後、越後平野の水害は激減し、米どころ新潟という大穀倉地帯が産まれました。新潟市の河口付近では、以前は、信濃川の川幅が800m近くあったのが、水量が減ったために埋め立てが進み、300mほどになったとのことです。そのおかげで、新潟県庁、朱鷺メッセなどの巨大建造物も建てられるようになり、土地の有効利用が進みました。

この物語にラジオスタジオでは、期せずして拍手が沸き起こっていました。

私もくるまの運転をしながら、感動して拍手を送っていました。30分ほどの番組でしたが、知的好奇心を掻き立てられる濃い内容でした。同時に2年前に長野県に起きた出来事にも思いを馳せてみました。

(以下は、ラジオ番組の内容ではありません)

今から2年前の10月、令和元年東日本台風(台風19号)が、各地に甚大な水害を起こしていきました。特に、千曲川沿岸では、大きな被害があり、長野市では堤防が決壊して、大規模な浸水が起きました。いまでも災害復旧工事が行われています。車両基地に留まっていた北陸新幹線車両が浸かりました、上田では上田電鉄鉄橋が陥没しました。

 

なぜ、下流の信濃川では大きな水害が起きなかったのだろうか?と思っていました。

長野市の千曲川が決壊して半日~1日たったころ、晴天の中だったにも関わらず燕市付近を流れる信濃川は、未曽有の水量になっていました。国土交通省は、信濃川本流の洗堰はすべて閉じ、大河津分水の可動堰は全開にしました。そのため長野県から流れてくる大量の流木と水は、ほとんどが大江津分水を経て日本海へ注いでいきました。越後平野は、他県の上流に降った大量の雨による水害からも、大河津分水によって守られていたのです。

 

信濃川の上流の長野県に住む一人として、いままで下流のことを考えたことがなかったのですが、このラジオ番組によって視点を変えることができました。

今度、新潟県に行ったらゆっくりと大河津分水の今を見に行こうと思いました。

コロナ禍ではありましたが、1週間にわたる出張を許可してくれた組合にも感謝しています。出張がおわり、私の家庭と会社では、会議にはリモート参加するなどの隔離処置を約1週間、自主的に行いました。しかし、自分としてはコロナに感染していないという科学的な自信がありました。

 

それは、地元飯田市が行っている抗原定性検査キットによる水際対策事業(社会実験)に参加していたからです。全国的に見ても先駆的な取り組みである、抗原定性検査キットによる社会実験については、次のブログまでお待ちください。

長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。

 

(追記;大河津分水の当時の写真 出典URL)

https://www.google.com/url?sa=i&url=https%3A%2F%2Ftsubame-kankou.jp%2Fseeing%2Fabout_ookoudubunsui%2F&psig=AOvVaw1mNd_yR2_dT8woDcnZBLeQ&ust=1627713359366000&source=images&cd=vfe&ved=2ahUKEwj70PX1loryAhUFzYsBHbKvAlYQr4kDegQIARA7

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ed/Okozu_Canal_under_construction.JPG

 

https://www.google.com/url?sa=i&url=http%3A%2F%2Fwww.hrr.mlit.go.jp%2Fshinano%2Fohkouzu100th%2Fohkouzu100th.html&psig=AOvVaw1mNd_yR2_dT8woDcnZBLeQ&ust=1627713359366000&source=images&cd=vfe&ved=0CK4BEK-JA2oXChMIkNjwh5eK8gIVAAAAAB0AAAAAEAQ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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